プロフィール
画家、壁画師。
アクリル絵の具を使用した手描きによる精密な写実画を特徴とした作品を制作する。
2010年、ニューヨークでの個展を皮切りに画家として活動を始める。
壁画制作、舞台美術、テレビドラマ美術提供、ブランドや企業との商品コラボレーション、音楽アーティストへの作品提供など創作活動は多岐にわたる。
2015年より海外での作品展開を本格化させ、2017年まで拠点をイギリスに置いて活動。
その間、ニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドン、アムステルダムで個展を開催し、2018年にパフォーマンス団体のプロデュースをきっかけに起業した。
画家として舞台美術を担うだけでなく総合芸術としてダンサー、作曲家、映像作家、カメラマン、ファッションデザイナーを含めたディレクションも行う。
2019年より壁画師としての活動に重きをおき、タイのバンコク芸術文化センターにてSDGsを下敷きとしたアートプロジェクト《Art Can Help You》を開催し、3日間で1,500人の参加者を集めた。
2020年に来形。壁画師として「シネマ通りシャッター壁画プロジェクト」に取り組む。
2021年にアートによる地域活性化などを行う(株)YAMAGATA Growth Hackers(ヤマガタグロウスハッカーズ)を設立。
同年4月に山形市へ移住した。
東京都出身。
チャレンジのきっかけ
2歳の頃からおもちゃで遊ぶように色鉛筆で絵を描いていた。次第に描く枚数が増えていき、100~200色入りの色鉛筆を買ってもらって夢中で絵を描いていた記憶がある。父方の祖父が画家だったことも影響している。しかし、母から「絵を続けるなら趣味として」と小さい頃から言い聞かされていたこともあり、画家になることは考えていなかった。母がそのように言ったのは、祖父は経済的に苦しく祖母の支えがあったから画家を続けることができたのを知っていたからだ。
図工の時間に描いた絵が校内で賞をもらったり、学校行事のしおりの表紙を描いて褒められたりしたことが自信につながっていったものの、美術系の大学への進学や仕事にするという考えは生まれなかった。
高校時代の成績は芳しくなく、自分はダメな人間だとネガティブに思う日々を送っていた。3年間打ち込めることも、明確な目標もなかったが、なんとなく心理学を学べる大学に入ろうと思っていた。進路を決めるための三者面談で、絵を描くことが得意なことを知っていた担任から「心理学? 画家になると思っていたから芸術学部に進むと思っていたよ」と言われたが、母は遮るように「そちらの世界は厳しいので」と話をそらした。自分のアイデンティティが定まらないまま必死に受験勉強はこなし、難しいと言われていた志望大学の心理学科に合格することができた。
小学校から絵のライバルだった友人と成人式で再会し、絵画展のチラシをもらったことが心を打った。好きなことを純粋に突き詰め絵の勉強を続け、自身の展覧会を開くまで「好き」をひたむきに貫いてきた友人の姿を見て、頭を殴られたような気がした。「自分は何をやっているのだろう、人生は一度しかないのに」と、友人からもらったチラシを握りしめ、成人式の帰り道に一人で泣いた。おそるおそる両親に思いの丈を伝え、絵の道に傾倒することを納得してもらった。あれだけ絵の世界に進むことに反対していた母だったが、つまらなそうに大学生活を送る娘の姿を見て心配していたことを、その時に知った。
芸術系の学部への転部も可能だったが、2年生の冬に大学を中退し、都内のデザイン専門学校に入り直した。そして、好きなことを人生の軸にできることがどれだけ幸せなことか噛み締めながら学生生活を丁寧に過ごした。そこで学ぶ2年間の中でアクリル絵の具と出合い、今の描き方につながる方向性を見い出した。その後、インターンでアニメーターやコンテライターなどを経験していくうちに、他人がつくり上げる作品のひとこまを描くのではなく、自分の世界観をセルフプロデュースしていきたいと思うようになった。
チャレンジの道のり
デザイン専門学校を卒業後すぐにホームページを立ち上げ、自分の作品をアップしていった。その傍ら、飲食店のアルバイトをかけ持ちしながら、デザインの仕事を見つけては収入を得ていた。しかし、自身のポートフォリオ(作品集)の少なさと経歴の弱さに気づき、画家としての実績がないことに悩んでしまう。そこで思い切ってアルバイトを辞め、絵で収入を得ることに対して集中して模索する覚悟を決めた。展示場所を貸してくれるカフェを探し、そうした店を見つけ出してはポートフォリオを送って交渉し、毎月のように個展を開いた。当時一番盛んであったmixi(SNS)の絵画のコミュニティに参加し、個展の告知を繰り返していたところ、大好きなロックバンドのボーカルから「今度発売するCDのアートワークをお願いしたい」というメールが届いた。大きなチャンスを得て喜ぶ一方、自分が何者であるかがこれからたくさんの人々に知られていく上で、自分の今の経歴では「ハク」が足りないと感じ、思いきってニューヨークで個展を開くことを思いつく。
23歳の若い女性が突然ニューヨークで個展を開いてもヒットしないのはわかっていたけれど、大事な実績にはなると考えた。「日本人が経営しているニューヨークのギャラリー」を検索すると、ブルックリンに日本人の女性が経営するギャラリーがあり、問い合わせると「来年(2010年)の8月なら空いている」と返信がきた。すぐに契約し、ギャラリーの賃料を持ってアメリカへ向かった。ブルックリンでは、年配の男性が経営する古めかしいアパートに1週間滞在し、海外で初めての個展を開いた。専門学校を卒業した1年後のことだった。
ニューヨークでの個展開催を発表すると全国から少しずつ仕事が舞い込むようになった。2014年には、自身の絵のコレクターであるイギリス在住の日本人から「我が家をアトリエにしてイギリスで活動してみないか」と提案があった。海外での活動への憧れが強かったこともあり、翌年、制作拠点をイギリスに移した。2017年にロンドンで個展を開き、その後も自分でアプローチしながら、アメリカやオランダ、フランスでも個展を開くチャンスを得た。しかし、自分が理想とする「たくさんの人が見に来てくれる」個展とは程遠い状況で、人を呼び込む力の足りなさにもどかしさを感じてしまう。
そこで、人脈を広げるための策としてレセプションパーティーをプロデュースする会社を立ち上げることにした。以前、浅草で花魁をテーマにしたショーを開いたことが認められ、2020年の東京オリンピックで同様のステージの仕事をしないかという話をもらっていたことも法人化した大きな理由のひとつだった。会社発足後3年間は、オリンピックに向け海外遠征を重ね実績を作っていった。山形との縁が生まれたのは、2019年にタイで開催したショーを観てくれた 山形県タイ友好協会の理事と名刺交換をしたのがきっかけだった。結局、コロナ禍で東京オリンピックでのステージは中止になり、ショーのプロデュースの仕事も休まざるを得なくなった。「もう一度一人に立ち返り、絵描きの活動に集中しよう」、そうした時に考え付いたのが壁画を描くことだった。コロナ禍で自分自身を奮い立たせようという思いから壁画を描く活動に力を入れ始めた。壁画のポートフォリオが乏しかった為、まずは修行のつもりで「全国25か所限定で、無償で壁画を描かせてほしい」とSNSで発信したことで、全国に壁画師として名が知られるようになり、以前タイで名刺交換をした山形県タイ友好協会の方からメールが届く。「山形に来て一緒に盛り上げてほしい」と言われ、初めて山形を訪れた。話が進み、「シネマ通りシャッター壁画プロジェクト」として、七日町にある土産店のシャッターに絵を描くことになる。その様子は地元メディアで取り上げられ、活動を知った山形の人たちが差し入れを持ってきてくれるようになった。既に全国で多数の地域で壁画制作をしていたが、他県ではこうしたコミュニケーションはあまり生まれなかった。コロナ禍で東京から離れて活動することを考えていた時期だったこともあり、「山形を生活の拠点にしよう」という思いが強くなった。
シャッターの絵は10日間で完成した。その間、山形市観光戦略課から「アートをキーワードに蔵王温泉を盛り上げていくプロジェクトの中心メンバーになってほしい」という依頼を受け、それを機に2021年1月から2月の50日間蔵王温泉街に長期滞在し、同年の4月に山形市へ移住した。
現在の活動内容
2021年、蔵王で暮らしながら絵の制作に取り組む「蔵王画家暮らし」プロジェクトに関わる。アーティストが一定期間ある土地に滞在して創作活動を行う「アーティスト・イン・レジデンス」の実証事業の一環でもあった。50日間という限られた日程の中で、制作している様子や蔵王温泉の情報をSNSで発信し、完成した絵は宿泊施設のロビーで展示販売を行なった。また観光客に楽しんでもらうことを目的に、別の旅館では館内の壁面に絵を描いたり、蔵王の土産品のラベルデザインなども手がけた。
蔵王以外にも活動の場を広げ、県内企業などとも積極的にコラボレーションしており、山形市平清水焼の窯元「七右エ門窯」では、素焼きの大皿への絵付けを行なっている。伝統工芸にアートな視点を加えることで、新たな価値を生み出していくことが目的だ。また、米沢市の「香坂酒造」では日本酒のラベルデザインも行なっている。自分が関わることで、販路拡大に悩む企業の一助になればと思っている。
山形市に移住したことで、東京ではできなかったさまざまなことに挑戦できている。そして「ここに住んでいるからこそ生まれる新しいエネルギーと創造性がある」と感じる。自分の活動を楽しく、幅広く発信していくことで山形への移住の促進にもつながればと考えている。
今後の目標・メッセージ
「移住してからの2年間は自分の拠点を確実なものにしながら、創作環境を整える期間でした。今後アフターコロナを見据えて、《山形》という素材を自分の中で消化しながら、作品を国内だけでなく海外へ発信していく挑戦も再開しようと思っています。山形から力をもらい、山形の自然や環境を味方につけて、新しい『小林舞香』として活躍の場を広げていきたいです」。