プロフィール
1982年 鶴岡市生まれ、酒田市在住。
2004年~ よしもとクリエイティブエージェンシーで芸人・タレントとして活動。
2011年5月~ 初代「山形県住みます芸人」を3年間経験。
2018年~ 薬膳カレー「ミウラのユカレー」 を展開。
2019年 よしもとクリエイティブエージェンシーを卒業。
酒田市の男性と結婚、1児の母。
東京での芸人時代は、世の中を知るためと生活を支えるために、飲食店や古着屋など約50の職種のアルバイトを体験。
飲食店での調理やメニュー開発、料理番組出演、出張料理人など、「食」に関する事に多く関わる。
現在は酒田市大沢地区を拠点にフリーで活動中。
料理家・薬膳インストラクターとして、オリジナルの薬膳スパイスカレー「ミウラのユカレー」 を提供している。
また地域のお祭りや食に関わるイベントなどの企画や司会などの活動もおこなっている。
やまがた特命観光・つや姫大使、庄内浜文化伝道師。
チャレンジのきっかけ
家系に医療従事者が多かったため、子どもの頃は自分も同じ道に進むのだろうと思い「お医者さんになりたい」と言っていた。しかし理数系の勉強が苦手だったため医者の道はあきらめ、その後は夢ややりたいことを見つけられずにいた。
幼い頃からテレビやラジオが大好きだった。芸人も大好きで憧れていたが、子どもながらに、“売れなければ地獄”といわれている “厳しい世界”に安易に近づいてはいけないと思っていた。
高校3年の進路を決める時期になり、社会福祉士なら医療関係に近いと思い、大学の心理学部を受験したが不合格。受かったのは、とりあえず受験した第二志望の国際学科だった。東京に憧れていたので、上京してその大学に入ったものの、8か国語を勉強するのについていけず、大学に行けなくなり引きこもるようになった。
そうした生活の中、テレビで放送作家のスターを目指す若者が一つの家に住み、おもしろい企画を書ける人がデビューを果たす、という番組を見た。そこで企画を送ってみたところ採用され、初めてテレビに出た。参加してから半年ほどで番組は終わってしまったが、放送作家という仕事に興味がわき、これを学べる学校はないかと探してみると、吉本興業の養成所(東京NSC)に構成作家コースがあることを知った。翌年、両親に「大学を辞めて吉本の養成所に入り、構成作家の勉強がしたい」と話すと、激怒され、縁を切られ、仕送りも止められた。それからは飲食業やオペレーターなど、さまざまなアルバイトをしながらNSCへ通った。
ところが、構成作家の勉強をするうちに自分が作ったネタや台本を「自分でやりたい」という思いが強くなり、芸人さんに渡すのが嫌になってきた。悩んでいた時、たまたま小学2年の時に書いた文集を目にした。そこには「将来の夢、1番目はお医者さん、2番目は吉本の芸人、もしそれがダメだったら女優になってあげます」と書いてあった。NSCの授業で習った“3段落ち”というお笑いの法則にのっとった文章だった。その時に、自分は子どもの頃からずっと親の顔色をうかがい、失敗すると人のせいにする癖がついていて、芸人になりたいという気持ちに蓋をしていたことに気づいた。このままでは年をとって死ぬ間際に「若い時、芸人の世界に挑戦すれば良かった」と後悔すると思い、「ダメ元でもやってみよう!」と、構成作家コースを卒業後、芸人コースに入り直した。NSCでは2年も養成所に通う生徒は初めてで、前代未聞だったらしい。
チャレンジの道のり
養成所の芸人コースに入り、女性3人でトリオを結成しデビューした。講師の木村祐一さんに名前をつけてもらい、大人気だった同期のオリエンタルラジオなどの恩恵もあって、オーディションや若手芸人の番組やライブに出演させてもらった。
当時はお金がなかったため、昼夜アルバイトをいくつも掛け持ちし、その合間に先輩のライブの手伝いや人付き合いなどをこなした。住んでいた部屋にはクーラーがなかったので、夏は冷房の効いた山手線の電車内で貴重品などを取られないようにカバンに鍵をかけて寝たりしたこともあった。「絶対に成功するんだ!」という強い思いで、とにかく必死だった。
女性トリオや男性と組んだコンビでいくつかテレビ番組には出られたものの、残念ながらうまくいかず解散してしまった。しかし、ピン芸人として『エンタの神様』という番組に出てから、疎遠になっていた父親が数年ぶりに目を合わせてくれた。その後もお笑いライブや舞台、番組のネタコーナー、料理に関係する番組などに出たりもしたが、大きな成果を出せずにいた。
ある時、お笑い番組のモノマネオーディションで、髪を一部だけ剃ってプロボクサーの亀田興毅さんのモノマネをしたところ、「全部剃ったら番組に出してあげる」と言われ、帰りにバリカンを買い、丸坊主にして、番組に出演することができた。すると「気合入っとんな!」と、一気にさまざまな芸人が声をかけてくれるようになり、ようやく一芸人として接してもらえるようになった気がした。
それから間もない2011年に転機が訪れた。吉本興業が全国47都道府県に「住みます芸人」を置いて、日本各地を盛り上げようという企画をスタートしたのだ。それまでずっと、「東京で絶対成功するんだ! 売れるまで、還暦になるまでは山形に帰らない」という気持ちでいたが、東日本大震災があり、何か東北や山形の役に立ちたいと思うようになっていたので、「山形県住みます芸人」に手を挙げ、その年の5月から山形で芸能活動を始めた。しかし丸坊主の女性は山形には刺激が強すぎたようで、ある番組の料理コーナーに出演する際にカツラを渡された。かぶってみると「山形県知事さんそっくり! 絶対いいべ!」と言われ、そこから吉村美栄子山形県知事のモノマネを始め、山形の人たちにも親しみを持ってもらえるようになった。やがて知事本人から「どんどん真似していいわよ!」と公認もいただいた。
出演した料理番組のコーナーでは、在来作物を作る農家さんの畑を訪ねたり、郷土料理を学んだり、また伝統的なお祭りや伝統工芸、伝承芸能など山形に関する事をたくさん学んだ。
3年間の「山形県住みます芸人」の活動の中で、1人では力不足だと感じる場面が多々あり、最後の相方探しのチャンスのつもりでもう一度上京した。東京でNHKの俳句番組に出演すると、山形の食や風土を詠んだものだけ評価が◎だった。東京は華やかでおしゃれでギラギラしていて面白い半面、全ての物価が高く、人付き合いも多く、疲弊と浪費がものすごいという現実があった。また、長年の不摂生と不健康な生活で、30代になり体調の悪さを感じるようになった。
そんな中、山形県に伝わる在来作物と種を守り次ぐ人々のドキュメンタリー映画『よみがえりのレシピ』(渡辺サトシ監督)を観る機会があり、やがて、映画に出てくる奥田政行シェフと出会う機会がやってくる。2015年にイタリアで開かれたミラノ万博に、好奇心から花笠踊りを踊るメンバーとして自費で参加したときのことで、奥田シェフは日本・山形・鶴岡市の食文化伝道師として万博に参加していた。たまたま話をする機会があり「今、東京にいるが、山形の食文化に魅力を感じている。将来を考えると山形で過ごしたいと思っている」と言ったことがきっかけで、吉本興業に籍を置きながら、鶴岡の奥田さんのお店で料理や在来野菜の勉強をさせてもらえるようになった。
現在の活動内容
その後、羽黒の在来野菜のレストランで働き、在来野菜のおいしさと力強さに感動した。在来野菜は種類が多く、何もわからなかったので、定休日には1人で在来野菜を使いハーブやスパイスを調合して実験しながら、間借りでカレー屋をさせてもらった。
出羽三山の山伏修行を体験する貴重な機会にも恵まれた。7日間、精進料理のみの菜食生活だったが、体がみるみる軽くなり、エネルギッシュになった。こうした経験が重なり、2018年から、世界3大医学のアーユルヴェーダ、中国医学の薬膳、山形の郷土料理、出羽三山精進料理、おばあちゃんの知恵袋、地域の困りごと、SDGs問題など、あらゆるものをとりいれたオリジナルの薬膳スパイスカレー「ミウラのユカレー」を展開するようになった。
2019年に結婚し、現在は酒田市大沢地区を拠点に、春から秋はキッチンカーでイベントなどに出店し、冬はレトルトカレーを製造している。低利用魚(※)、ジビエなど、イベントのテーマに合わせた薬膳スパイスカレーなども提供していて、「その土地のもの」「課題に向き合いながら」「喜んでもらえるものを」と、いろいろ工夫するのが楽しい。上手に料理する人はたくさんいるが、自分ならではの要素を加え、くすりと笑えたりユニークなものを作りたいと思っている。
山形県内や、庄内地域のおいしい郷土食を達人から学んで、次世代にバトンを渡していけたらという思いもあり、今は笹巻きやしそ巻き、行事食などを各地に学びに行っているところだ。また、地元のお母さん方が活躍する場や、食に興味を持つ若者との交流の場を増やしたいと考えている。
こうした“場づくり”やイベントなどのプランニングも、家族や地域の人たちと一緒にやっていて、1人ではできないが「チームだからできること」を大切に活動に取り組んでいる。
(※) 水揚げしても市場に出回らない、あるいは出回りにくい魚や、ある地域では食されていても他の地域では食べる習慣がない魚などのこと。
今後の目標・メッセージ
古代の中国では、王様の食事を管理し体調を整える「食医」というお医者さんがいたそうだ。医者にはなれなかったけれど、先人の知恵、自分の感性を使って「食」を通して人の役に立てるようになりたい。
芸人も人を笑顔にする仕事、そして料理も人を笑顔にする。目に見えるものと見えないもの、多くの人のお力添えをいただいて生きてきた事を実感している。
これからは若い人たちや、同じ時代を生きる人を励ましていけるような生き方をしていきたい。