俳優・モデル(元山形県警察官)
田中 杏樹さん

プロフィール

1994年、米沢市生まれ、神奈川県在住。

大学卒業後、警察学校を経て山形県警察に入り、所轄の地域課や県警本部鑑識課に勤務。

俳優を目指して退職し、単身上京。芸能活動を開始する。

テレビドラマ『教場Ⅰ、Ⅱ』、『未満警察ミッドナイトランナー』、『警部補ダイマジン』のほか、テレビバラエティ『林修の今でしょ!講座』や『世界まる見え!テレビ特捜部』などに出演し、舞台やYouTubeでも活躍中。

芸能活動と並行して、警察官時代の経験を生かし、「交番(KOBAN)博士」として交番勤務での体験にまつわるエピソードを交えた講演などを行なっている。

チャレンジのきっかけ

 高校卒業後、宮城県の大学に進んだ。就職を考えるようになった頃、特に将来の夢もなく、両親からは地元に帰ってきてほしいと言われていた。地元に戻るなら公務員になろうかなと漠然と考えていた。そんな時にたまたまテレビで『警察24時』という番組を見て、“警察官ってかっこいい!”と思った。それまで警察官になろうと思ったことは全くなかったが、その番組がきっかけで警察官を目指すことにした。それから猛勉強して山形県の警察官採用試験に合格し、大学を卒業すると天童市にある警察学校に入校した。大卒と高卒の同期生とともに、全寮制での共同生活だった。

 警察学校では、大卒は6か月間、初任科で警察官に必要な知識・技能・体力・人間性を身につけるため、刑法や刑事訴訟法などの法律や、不審者への職務質問の方法、体力訓練、逮捕術などさまざまなことを勉強する。その後、交番で3か月間の職場実習、警察学校で2か月間の初任補修科、警察署での4か月間の実戦実習を経て、やっと一人前の警察官になった。同期の仲間とともに同じ目標に向かって頑張るという貴重な期間を過ごし、人と人との絆の大切さを学んだ。

チャレンジの道のり

 最初は県警の地域課に配属され、交番勤務になった。ある日、高齢の女性から「夫が戻って来ない」と110番通報があり、行方不明者として捜索した。ほどなく、ホームセンターの駐車場でその男性の車が発見され、男性は車の中でシートベルトをしたまま亡くなっていた。心筋梗塞だった。助手席には花束が置いてあったので、そのことを伝えると女性は泣き出した。以前から夫婦喧嘩をしたら必ず花束を買って仲直りをするという約束があったという。前日に喧嘩をしたばかりで、女性は「最後に夫と話をすることができなかった」と、とても後悔されていた。そうした姿を見て“両親や周りの人に素直に感謝の気持ちを伝えよう。自分がいつ、どうなってもいいようにちゃんと生きていかなければ”と思った。

 その後、県警本部の鑑識課に異動すると、病院以外で亡くなった方を検視するので、毎日のようにご遺体を見るようになった。自分より若い人や同じ年頃の人のご遺体を見ると、“これからやりたいこともあっただろうな。きっと悔しいだろうな”と思った。そして、 “それじゃあ私は一生このままでいいのか?”と自分に問いかけた時、 “芸能の仕事がしたい!”という小さい頃の夢がよみがえった。

 昔から俳優に憧れていたが、田舎に住んでいることや、両親がそうした華やかな世界を良く思っていなかったこともあり、いつの間にか無理だと自分に言い聞かせてあきらめていた。しかし、自分もいつどうなるかわからないと思った時、“一度しかない人生なのだから悔いのない人生を送りたい”という強い思いが湧き上がった。

 警察官になり、事件の被疑者であれ被害者であれ、心に闇を抱えている人が多いと感じていたことも俳優を目指すきっかけの一つになった。心が傷ついた人たちをどうにか前向きに、明るい気持ちにできないだろうかと考えた時、“エンターテインメントには人の心を励まし元気にする力がある。自分は人を励ます側になりたい”と思った。警察官の仕事にやりがいを感じてはいたが、夢に挑戦してみようと決意し、退職した。

警察官として交番に勤務していた頃
県警の鑑識課の時には音楽隊も兼任

現在の活動内容

 俳優としてやっていけるのかどうかという先の見えない不安はあったが、上京し、芸能活動をスタートした。初舞台は2.5次元舞台(※)で、戦国エンターテインメント『信長の野望~桶狭間前夜~』の清(きよ)という侍女の役だった。演技経験がほとんどないまま俳優になり、プロの役者たちの演技を目の当たりにして圧倒され、同じ舞台に立つ不安は大きかった。しかし、ようやく憧れの世界に入ったのだから、自分もここでプロとして頑張らなければと稽古を重ねた。先輩や共演者がとても優しく、いろいろ教えてくれてとても勉強になった。舞台は1人の力でできるものではなくチームプレーなので、共演者やスタッフとのコミュニケーションが大事だ。警察官時代に学んだ同僚や同期の仲間を大切にする精神が、芸能の仕事にも生かされたと感じた。

 その後、木村拓哉さん主演のテレビドラマ『教場』シリーズに警察学校の生徒役で出演し、元警察官ということで敬礼や動き方など警察官の動作の指導・監修もさせてもらった。中島健人さん・平野紫耀さん主演のドラマ『未満警察ミッドナイトランナー』にも出演し、また『林修の今でしょ! 講座』や『世界まる見え!テレビ特捜部』などのバラエティ番組にも元警察官として出演依頼があった。そのほか映画やCM、雑誌のモデルなどの分野にも仕事の幅が広がり、充実した毎日を送っている。

※2.5次元舞台・・・日本の漫画やアニメ・ゲーム(2次元)を原作とした作品を、舞台やミュージカル(3次元)で再現しているもの

 

 こうした芸能活動と並行して、講演を依頼される機会も増えた。いろいろな可能性を持っている中学生や高校生に向けては、夢をあきらめずに行動したことで、憧れていた俳優になれたという自分自身の実体験を話している。警察官から俳優になった例はほとんどなく、芸能活動を始めた年齢も25歳と決して早くはないが、それでも夢を実現できた。オーディションを受けて落ちることもあるが、そんな時にどうやって前向きな気持ちに切り替えて次に進むかなど、自分の体験談が夢に向かって頑張っている人への励ましや、一歩前に進むきっかけになれば嬉しい。

 元警察官の経験と知識を生かし、「交番(KOBAN)博士」の愛称で講演活動も行なっている。警察官時代に女性の性犯罪被害者に対応することが多かったので、講演では主に女性の安全や性犯罪防止について話をしている。性犯罪に巻き込まれ傷ついてしまわないように、自分で自分の身を守り、未然に犯罪を防ぐにはどうしたらいいかなど、事例を紹介しながら話をしている。

 性犯罪だけでなく、詐欺の被害に遭う人も少なくない。多くの人は、犯罪は他人事で自分は大丈夫だと思いがちだが、犯罪に巻き込まれてしまうことは誰にでもあり得ることだ。講演活動を通して防犯意識を高め、犯罪を防ぎ、安心して暮らせる社会づくりの役に立ちたいと考えている。

 そうした防犯活動の一つとして、「パープルリボングレイス山形」にも協力している。米沢市を中心に、「誰でも私らしく輝く女性であるために、子ども、女性への暴力をなくす」ことを目指し、さまざまな活動を行なっている団体だ。今年9月に開催される「パープルリボンセミナー」では、元徳島県警捜査一課警部で通称「リーゼント刑事」の秋山博康さんと「STOP!! ハラスメント」のテーマで“元警察官2人の防犯トークセッションライブ”を行なう予定だ。

2023年パープルリボングレイス山形のセミナーで講演 ※左は「リーゼント刑事」の
秋山博康さん(元徳島県警捜査一課警部)
2024年9月に開催される「パープルリボンセミナー」でも講演

今後の目標・メッセージ

 芸能の世界に入って6年目になり、俳優として演技をする上で自分自身と向き合う時間がより一層増えたと感じている。その役としての感情はもちろん、台本を読んで自分がどう感じたか、自分ならどう考えるかなど、演技には自分の内面が出るので、同じ役でも役者によって全く違う演技になる。いただいた役を深く掘り下げて、自分にしかできない演技をしていきたい。いつかは刑事ドラマのメインの役もやりたいし、警察官の経験から犯人側の視点もわかるので、犯人役もやってみたいと思っている。時代劇や朝ドラに出演する俳優になって、応援してくれるファンの方たちにもっともっと喜んでもらえるようにと頑張っている。

 元警察官ならではの活動として、講演にも力を入れていくつもりだ。性犯罪の話というとデリケートな話題で抵抗感を覚える人もいるが、セミナーで自分の講演を聞いてくれた方から、「意外にすんなり話を聞くことができた」「こういうことがあるのだと身近なことに思えた」「犯罪を防ぐために、自分もこういうところに注意しようと思った」など嬉しい感想をもらった。女性警察官だったからこそ伝えられることがあると思うので、その経験を生かして、これからも女性の味方として犯罪防止について積極的に話をしていきたいと考えている。

 中学高校の若い世代の人たちに、“お姉さん的な存在”として話をする機会も増やしていきたい。思春期で不安定な時期は、自分がそうだったようになかなか自分の思っていることを口にできない人もいる。本当にやりたいと思っていることを隠して表面上の夢を語ってしまったり、逆に絶対に夢を持たなければ、と悩んだりする子もいる。そうした人たちに、無理に周りに合わせるのではなく自分の感覚を大事にすること、本当にやりたいことがあるなら勇気を出して周りに伝えてみることなど、自分の体験を通して伝えていけたらと思っている。

米沢市の「二十歳のつどい」にゲスト出演
高畠中学校で講演(ぬいぐるみは高畠町のマスコットキャラクター「たかっき」と「はたっき」)

(令和6年7月取材)