プロフィール
1997年鶴岡市生まれ、在住。
庄内総合高校、酒田調理師専門学校を卒業後、株式会社エルサンに入社し結婚式場グランド エル・サンで日本料理を担当
現在、フード&ビバレッジ事業部SK 主任
2023年10月 新日本調理師会主催の「第1回身欠きふぐ調理技術大会」で会長賞を受賞
2023年11月 鶴岡食文化創造都市推進協議会主催の「第3回次世代ガストロノミーコンペティション」でグランプリを受賞
2024年1月 第3期「鶴岡 食のアンバサダー」に任命される
2024年6月 中国・マカオで開催された「マカオ国際食文化フォーラム2024食文化都市ショーケース」へ参加
チャレンジのきっかけ
父が和食の料理人をしていたので、子どもの頃から調理に興味があった。父はいつも忙しく、みんなが休みの時に仕事で、家族で旅行に行ったような思い出もないが、父を見て「かっこいい。自分もそうなりたい」と思っていた。
その夢を叶えようと、普通の高校生活を送りながら調理の検定を受けられる庄内総合高校に入り、卒業後は酒田調理師専門学校に進んだ。1年間学んだ後、株式会社エルサンに入社した。父と同じ和食を専門にしていたが、結婚式場のグランド エル・サンは一つの厨房に和食・洋食・中華の部門が揃っているので、そこでいろいろな料理を見て学び技術を磨きたいと思ったことが、入社のきっかけだった。結婚披露宴はお客様にとって一生に一度なので、その大切な料理に関われるのはやりがいがあるとも思った。調理師の仕事は、体力的に大変なところがあるが、入社すると上司や周りの人が温かく、助けてくれ、「この会社に入って良かった」と感じた。
チャレンジの道のり
入社から数年後、コロナ禍で宴会がなくなり、お客様に料理が出せない時期があった。その時、一度会社を辞めて自衛隊に入った。好きな仕事ができず、何か他のことで社会の役に立ちたいと考えたからだ。しかし、「やはり自分には調理師の仕事しかない」と再確認し、1か月で会社に戻った。会社の人たちは温かく迎えてくれた。それから「もっと腕を磨いて、料理の幅を広げたい」と思い、資格取得やコンテストに挑戦するようになった。
庄内の海はふぐもとれるので、まず最初に、ふぐ処理者認定試験を受けた。山形県では、全国統一の試験に合格しないとふぐ調理師の免許を取得できない。仕事の後は厨房に残り、上司がつきっきりで練習をさせてくれ、必死に勉強して合格した。試験結果を見ると99%できていたが、ふぐの調理は人の命に関わることなので、資格取得に満足せず、常に勉強だと思っている。その後、新日本調理師会主催の「第1回身欠きふぐ調理技術大会」に出場して、会長賞を受賞した。
同じ頃、ユネスコ食文化創造都市(※)に認定されている鶴岡市の「第3回次世代ガストロノミーコンペティション」(以下、コンペティション)が開催されることを知った。ちょうど上司の佐藤亘さんが定年を迎える頃だった。仕事にも慣れ、調理が作業になってしまっていた時、佐藤料理長から「料理はただ作るだけでなく、お客様への感謝の気持ちを込めて作らないとおいしい料理は作れない」と言われ、それから料理に対する思いが変わった。人としても料理人としても大切なことを教えてくれた佐藤料理長に、自分の成長した姿を見せて恩返しがしたいと思い、コンペティションへの参加を決めた。
コンペティションのテーマは「郷土料理や在来作物といった鶴岡独自の食文化や歴史の伝承」で、市内の若手料理人が在来作物の生産者や郷土料理の指南役とチームを組んで、オリジナルの料理を作るというものだった。指南役は、同じ職場で働いている佐藤八重さんにお願いした。八重さんが差し入れに持ってきてくれる手作りの料理が、祖母が作ってくれた郷土料理の優しい味に似ていたからだ。
どのような料理にするか、八重さんに相談しながら構想を練り、鶴岡の歴史や風景を感じられる料理にしたいと思った。試行錯誤を繰り返し、松ヶ岡地区に伝わる郷土料理「いもごぼたもち」を再構築し、一皿の中に鶴岡の過去・現在・未来を盛り込む料理を考えた。松ヶ岡地区は、明治維新後に旧庄内藩士たちが開墾し、養蚕をおこなったところで、刀を鍬に持ち替え、広大な土地を開拓した旧庄内藩士たちの歴史を伝えたいという思いを込めて、料理名を「いもごぼたもち切り株見立て~庄内藩士開拓の歴史と庄内の風景を残して~」とした。
審査では、“次の世代につなげたい”と思う鶴岡の食材・食文化への想いを綴った作文の一次審査、オリジナルレシピを評価する二次審査を通過して、最終審査に進んだ。最終審査は、審査員の前で制限時間60分以内にレシピ通りに調理し、できあがった料理を試食してもらうというものだった。
「いもごぼたもち」は、炊いた米と里芋をすり鉢で砕いてぼたもちを作り、根菜、きのこ、豚肉と一緒に煮て醤油で味付けをする。その具材を豚肉で巻き、開墾後に残った切り株に見立てた。揚げたごぼうと大根で鍬、卵黄の醤油漬けで庄内浜の夕日、つや姫の穂の素揚げで庄内平野を表現し、開墾から未来につながるシルク産業が生まれたことも伝えたいと、シルク入りの餅で絹織物を表現した。
最終審査の結果、残った5チームの中からグランプリに選ばれた。うれしさよりも佐藤料理長や指南役の八重さんをはじめ、職場の人たち、家族など、支えてくれ協力してくれた周りの人たちのおかげだと感謝の気持ちでいっぱいだった。そして、この気持ちを忘れず、料理人として日々精進していきたいと思った。
※ユネスコ食文化創造都市
ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)創造都市ネットワークは、ユネスコが対象とする7つの創造的な産業(文学、映画、音楽、クラフト&フォークアート、デザイン、メディアアート、食文化)の分野において、都市間でパートナーシップを結び、相互に経験・知識の共有を図ることなどを目的として、2004年に創設された。
鶴岡市は、これまで大切に受け継がれてきた多彩な食文化が評価され、2014年12月に「ユネスコ食文化創造都市」に認定された。
現在の活動内容
コンペティションで入賞した若手料理人3人が、「鶴岡食のアンバサター」に任命された。鶴岡市の食関連イベントへ参加したり、SNSなどで情報発信し、鶴岡の食や食文化を広く県内外にPRする役を担うことになり、仕事のかたわら活動に取り組んでいる。
今年6月には、「鶴岡食のアンバサター」として、ユネスコ創造都市ネットワークで連携している中国マカオで開催された「マカオ国際食文化フォーラム2024食文化都市ショーケース」に参加した。そこでは、庄内の郷土料理の、味噌おにぎりに青菜漬を巻いて焼いた「弁慶飯」とシルク入り麦切り、日本の出汁がきいたそば出汁を披露した。海外で和食はとても人気があり、大勢の人が興味を持ってくれた。意外だったのが、外国の人はおにぎりを上手くにぎれないということで、食文化の違いを感じた。そして、庄内・鶴岡が食に恵まれていること、日本の食材が繊細でおいしいことをあらためて実感した。
一方で、日本では、料理人は無口な職人のようなイメージがあるが、海外では自由に楽しく料理していることに気づいた。最初は、「しっかりと鶴岡の食文化を伝えなければ」と気負いがあったが、そうした海外の料理人の姿を見て、「自分らしく、楽しく食文化を伝えることが大切」と思えた。
鶴岡市がユネスコ食文化創造都市認定から10周年を迎えることを記念して、12月に「つるおかふうどフェスタ」が開催される。その中のイベントの一つの、ノルウェーやブラジル、ポルトガルなど、世界の各都市から料理人が鶴岡市に集まり、日本ではなかなか食べられない世界の料理を楽しめる「料理デモンストレーション」にも参加する予定だ。世界のシェフと一緒に料理を作れるのは、技術的にも学ぶことが多く、とても刺激になる。
他にも、講演やコメンテーターなどを頼まれたり、取材を受けたりすることも増えた。女性で初めてのコンペティション受賞者ということでプレッシャーを感じることもあるが、受賞をきっかけに、料理人としての世界が大きく広がったと実感している。
今後の目標・メッセージ
尊敬する佐藤料理長や八重さんから教わった、「食べる人への感謝の気持ち、愛情を込めて作る」ことを大切に、鶴岡の食文化を世界に広めていきたい。
将来の目標は、父と和食の店を出すことだ。以前、在来作物の外内島(とのじま)きゅうりを栽培している生産者さんから「自分が子どもの頃に食べた外内島きゅうりがおいしいから、子どもたちにも食べさせたいと思って育てている」という話を聞いて、こうした地元の生産者さんとつながり、顔の見える生産者さんが育てた食材を使った料理を提供する店を持ちたいと思った。
自分たちの世代は、祖母が郷土料理を作ってくれ、それを食べて育った。しかし今は、郷土料理を作れる人は少ないように思う。鶴岡に伝わる郷土料理のすばらしさを広く発信し、子どもたちに地元の食文化を伝え、実際に食べたり、料理してみたりできる場を作るのも、調理師としての自分の仕事だと考えている。
調理師は拘束時間が長く、夜の勤務もあるので、特に女性の場合は出産や育児で仕事を続けられない人が多く、大変な仕事というイメージが強い。しかし、おいしい料理は人を幸せな気持ちにするので、育児や家庭の事情で調理師をやむを得ず断念してしまった女性調理師たちのためにも、思いを背負い、調理師を子どもたちにとって夢のある仕事にしたい。
まだ料理人として歩み始めたばかりで学ぶことはたくさんあるが、鶴岡のために、ずっと料理人をして生きていきたいと思っている。