プロフィール
山形県鶴岡市生まれ。地元高校を卒業後、京都市に進学。滋賀県の障碍児施設「第2びわこ学園」で2年間、京都市の「青いとり保育園」で約31年間勤務。
退職を機に2009年から京都と鶴岡を往復する暮らしを始める。
東日本大震災の2011年6月はじめに母子疎開支援ネットワーク「hahako」に登録、6月末から「フクシマの子どもの未来を守る家」の活動を始める。
チャレンジのきっかけ
保育士をしながら家族とともに暮らしていた京都から、両親の住む山形県鶴岡市に拠点を移したのは、「親孝行しようかな」という気持ちから。親戚から一軒家を借り、親の介護をしながら、鶴岡と京都を行き来する生活を送っていた。
高橋さんを支援活動の道へ進ませたのは、2011年の東日本大震災だった。「福島で放射能の影響のため外遊びができない」という子どもがいること、そして一時的に離れた場所で日常を過ごす「保養」という活動があることを知ったと言う。「うちで良ければ……」と、ウェブサイトで情報を発信すると、早速、生後10ヶ月の子を育てるご家族から、申し込みが入った。
福島に住む人たちに「保養」の機会が必要だと強く感じた高橋さんは、同年6月に「フクシマの子どもの未来を守る家」を設立。8月には周囲に声をかけ、「サポーター会議」を開催し、本格的に福島の家族を受け入れるための活動を始めた。
チャレンジの道のり
「子どもを安心して遊ばせられない」、「事情があって避難できない」と、日常の生活に不安を持ち、高橋さんに問い合わせをする家族はどんどん増え、当初予定していた週末だけの活動では足りないほどだった。親戚や同級生などに声をかけて、空き家を4軒確保し、夏休みには13家族が利用した。
一時的とは言え、生活をする家を提供するという活動は、より細やかな配慮が必要だ。冷蔵庫や炊飯器などの家電はもちろん、生活に困らない程度の日用品を揃えておき、自炊ができて不便がないようにと目を配る。安心して楽しく過ごせるようにと、子どもたちと一緒に遊んだり、お父さんやお母さんの話を聴いたりすることも、活動の一環として重視した。
「物資の寄付やボランティアでの活動協力など周囲の応援があり、とても助かりました。今までは縁がなかった『補助金』という制度も活動をする中で知り、翌年からは補助金に申し込んで、なんとか活動資金を作り出しました。」
現在の活動内容
活動開始から6年が過ぎ、利用者は年々減っているものの、現在も癒しを求めてやって来る家族が「守る家」の扉を開く。利用者は、「ずっと続けてもらってありがたいです」、「鶴岡はいいところで楽しみにしています」と感謝を伝え帰っていく。中にはエアコンまできれいにして、気持ちを掃除で返す人もいたという。
しかし、保養ではなく『安い』というだけが目的ではないかと首を傾げたくなるような利用者がいるのも事実。レジャーや民泊でなく『保養』のための施設だということを広く周知するのが、これからの課題だ。
「たくさんの人の気持ち(厚意)で維持している家なので、目的に沿った使い方をしっかりしていくというのが、私たちの願いです。本当に必要な人が、予約がいっぱいで入れない、ということにならないように、これから考えていきたいと思います」。
今後の目標・メッセージ
民家の維持やメンテナンスは、手間もコストもかかる。雪囲いなどの作業は、補助金があった時は業者に依頼できたが、現在は地域の有志の人たちによるボランティアに頼っている。
被災地以外向けの補助金が減り、活動資金の確保も難しいが、それでも協力する人がいることで、活動が成り立ってきた。クラゲで有名な加茂水族館では、高橋さんの名刺を出すことで、利用者が無料で入館できるサービスをおこなっている。また、市民からの寄付も、大切な活動資金となっている。
「今は報道も少なくなりましたが、まだ線量が高い地域があり、除染してもすぐ元に戻るという話もあります。そういった中で頑張って暮らしている人たちには本当に頭が下がり、応援したいと思っています。たまにこちらに来て、安心してのんびり過ごしてほしいです」。