元国連機関職員
宮負こう さん

プロフィール

千葉県千葉市生まれ。小樽商科大学に進学し、1年生の時にイギリスの大学に語学留学。
その後、イギリスのイースト・アングリア大学で、開発学学士課程と開発におけるジェンダー分析修士課程を修了。

1995年より国連勤務。アジア・太平洋、東南ヨーロッパ、中央アジア、ヨルダンなどを拠点に国連諸機関に勤務し、開発におけるジェンダー平等推進案件を担当。

2014年12月より国連開発計画United Nations Development Programme(UNDP)アジア太平洋地域事務所勤務。

2023年12月に退職するまで、ニューヨーク本部に加え、アジア・太平洋、中央アジア、中東、東欧など、世界各地で政策分析・立案・実施、政府およびNGO職員のキャパシティー向上、ジェンダー平等アドボカシー(※)、インクルーシブな職場文化・環境の構築を牽引した。
※アドボカシー(「唱道」「擁護」「代弁」といった行動を通して、政策決定や社会生活に影響を与えようとする活動)

2024年1月、山形に移住。

チャレンジのきっかけ

 千葉に住んでいた中学生の頃から海外に興味があり、カンボジア難民などのニュースを目にして、「何か力になりたい」という思いを抱いていた。大学受験の時、貧困をなくすためには経済を勉強すれば役に立てるのではないかと考え、小樽商科大学を選んだ。小樽には母の実家があり、子どもの頃からよく遊びに行った土地でもあった。

 大学で経済を学び始めたが、英語が話せなければ海外に行っても役に立たないと思い、1年生の時にイギリスの大学に留学した。語学コースに通ううちに、イギリスには開発学という社会学の専門分野があることを知った。先進国に比べて経済発展や開発が遅れている発展途上国への支援について研究する学問で、イギリスではかつて植民地支配していた南アジア、カリブ海の島々、アフリカの国々などの貧困問題に対する関心が高かった。その開発学を学べば役に立てるだろうと、イギリス東部の都市ノリッジにあるイースト・アングリア大学に入った。イギリスの大学は3年間で、卒業後は大学院に行き、ちょうど新設されたジェンダー学を専攻したいと考えた。

 ジェンダーをテーマに選んだのは、もともと格差や差別に関心があったからだ。子どもの頃、家の近くに朝鮮学校があり、通学路で小競り合いがあったり、周りの大人から「あの人たちにはあまり関わらないように」と言われたりして、「こんなことがあるのはおかしいのでは」と思っていた。
 また高校生になり大学進学を考える頃は、「女の子は実家から通える大学でなければダメ」と言われた時代だった。当時は、実家を離れて一人暮らしをしていた女性は、就職や結婚の時に良く思われなかった。自分の両親にはそうした考えはなく、希望した小樽商科大学に進んだが、自分が一番影響を受けたといえるのはやはり女性差別だと思い、ジェンダー学を選んだ。

 イースト・アングリア大学では、大学院に行く前に、大学で学んだ開発学の実地経験が必要だと言われた。そこで、クリスチャン・エイドというNGO(非政府組織)の嘱託スタッフとしてスリランカに行き、3か月間、ある多国籍企業が規模の小さい農家を搾取しているのではないかを現地でリサーチした。その後、大学院に入り、開発におけるジェンダー分析で修士号を取った。
 大学院を卒業する時、元JICA(独立行政法人国際協力機構)の方から、日本の外務省が実施するJPO(ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー)派遣制度という、国連で働くことができる制度があるから受けてみたらどうかと勧められた。そうした派遣制度があることを初めて知り、外務省の選考試験を受けると合格し、国際機関の職員として働くことになった。

チャレンジの道のり

 国連にはさまざまな機関があり、その中の一つUNDP(国連開発計画)に派遣された。UNDPは、170か国以上で貧困や格差の是正、社会的発展、気候変動対策などに取り組んでいる国連の主要機関だ。勤務地の第一志望をアフリカと書いたが、タイに行くことになり、UNDPタイ事務所の中にある農村都市開発チームに入った。首都のバンコクは大都市だったが、都市部と地方、富裕層と貧困層の格差が大きく、農村都市開発チームでは、特に貧困が深刻な地域で、農作物以外でお金を得る手段をつくるなど、貧困対策のプロジェクトを担当した。タイとラオス、ベトナムの国境にまたがる地域に住んでいる山岳民族の生活向上プロジェクトにも関わった。

UNDP(2022年・タイ)
UNDP(2023年・ブータン)

 

UNDP(2014年・ヨルダン)
UNDP(2017年・ソウル)

 

 2年間の派遣期間の間に、国連事務局の採用試験を通じて正規職員として採用された。配属先として提示されたのは国連本部のUN DAW(国連女性の地位向上部)で、現在はジェンダー平等と⼥性のエンパワーメントに向けた活動を支援するUN Women(国連女性機関)に統合されている。女性の地位向上は専門分野なので喜んだが、本部勤務でニューヨークに行くことになり、その時は「まだ若くて体力のあるうちに、もっと現地で活動したい」という思いがあった。
 UN DAWは当時、女性差別撤廃条約会議の担当部署で、事務局として年2回開かれる会議の運営を担った。会議には各国の代表や政府関係者、専門家や委員のほか、NGOの関係者なども参加する。会議のための書類作成やミーティング、調整など、毎回準備を担当した。ほかにも年に1回、政府間会議の国連女性の地位向上委員会があった。

 1995年に北京で開催された第4回世界女性会議(北京会議)で、ジェンダー平等をめざす取組みの指針となる「北京宣言」と「行動綱領」が採択されたが、その後、5年ごとに実施状況の検討・評価や今後の戦略について協議する会議が開かれることになっていて、ちょうど本部に勤務していた2000年がその年に当たっていた。この国連特別総会「女性2000年会議」も担当し、規模の大きな会議で準備に追われた。
 会議は政府間で、加盟国の代表が各国の利害や意見を調整しながら決議案を作成する。句点の位置一つでも意味が違ってくるので、どこに句点を打つかといった細かいところで夜中の2時3時まで揉めた。そうした時に、過去の事例などを探してきて各国の代表に提示するのも事務局の役割だ。とても神経を使い、体力勝負だった。

 また、当時はインターネットのない時代で、今のように会議の様子を知ることができなかった。そのため、このような会議は、多くの市民団体の人たちが傍聴した。彼らは、「自分の国の政府からも会議に出席しているが、何も話してくれないので内容がわからない。だから自分たちが行って聞かなければ」とやって来るのだった。国連は中立の立場で裏方だが、こうした市民団体の人たちの会議へのアクセスのサポートや会議の情報開示など、橋渡しも仕事の一つだった。最初の頃は「現場から離れることで、実際に女性や地域の人たちの役に立つことができないのではないか」と思っていた。しかし、市民団体の人たちから「国連から直接、情報を得ることができて良かった。これで国に帰って政府と話し合うことができる」と言われた時には、本部にいるからこそ貢献できることもあるんだとわかりうれしかった。
 4年間、本部に勤務した後、複数の国を包括して広域的な開発課題に対応する地域レベルの職務に移り、アジア・太平洋、中央アジア、中東、東欧などさまざまな勤務地で開発やジェンダー平等推進に取り組んだ。

 国連は加盟国から成る組織で、加盟国の主権平等が主要原則として約束されている。その中で、多岐にわたる課題への、調和と協力に基づく解決策を達成しようと模索している。世界のほぼすべての国が、ジェンダー平等は持続可能な社会には必須であると認めているが、達成に至る道のりに合意はなく、また、政治的な理由も含めて、道のりは平坦ではない。同じ機関に勤める同僚たちとの連携、同じ目標を共有する国連機関や市民団体との協働なしには、前に進み続けることはとてもできなかったと思う。

現在の活動内容

 2023年12月、バンコクでの勤務を最後に退職した。定年まではまだ期間があったが、ずっと海外で暮らしてきたので、余力を残して退職し、日本でも社会人として貢献したいという思いがあった。

 日本に戻り、好きな場所で新しい生活を始めようと考えた。四季がはっきりしていて山があり、雪が降って温泉がある所、新幹線で東京に日帰りで行ける所を探し、そうした希望にかなった場所が山形だった。それまで山形には全く縁がなく、誰一人知っている人もいなかったが、好きな作家・藤沢周平の故郷というのが最後の決め手になった。

 山形に移り住んで落ち着いたところで、霞城セントラルにある山形県国際交流協会に行ってみた。そこで、ボランティアでイベントやレセプションなどの際に英語の通訳をする国際交流サポーターに登録した。しばらくたってから連絡があり、通訳を頼まれた。内閣府国際交流事業の「世界青年の船」などに取り組んでいるIYEO(日本青年国際交流機構)という団体の支部である、山形県IYEO(山形県青年国際交流機構)が県立図書館で開催するイベントの英語通訳だった。この出会いをきっかけに、山形県IYEOの会員になり、そこからご縁がつながっていった。

 山形県IYEOでは、2024年から多文化・多言語の交流を得意とするメンバーが中心になり、定期的に「多文化子育てカフェ パステル」を開催していて、そのお手伝いをしている。さまざまな国から山形にやってきた子育て世代が子どもと一緒に集える場を提供し、話をしたり情報を交換したりする「多文化の子育て世代の集いの広場」だ。友人関係を築き、お互いの文化を知り、子育て世代に必要な山形の情報を交換することで、より住みよい社会を目指している。

山形IYEOで講演(2025年1月)
多文化子育てカフェ(2025年1月)

 

 最近は、国連機関に勤務した経験から、国連での仕事やジェンダー分野に関わる内容について話してほしいと、講師として招かれることも増えた。山形に来て、国連で働いていたというと驚かれることが多く、逆にそのことにびっくりしたが、確かに周りに日本人職員はたくさんいたものの、関東や関西出身の人が多かった。そういう意味では、山形の若い人たち、国連で働きたいという希望を持っている人たちに、自分の経験や国連の仕事内容について話をすることが役に立ち、将来の選択肢の一つにしてもらえるかもしれないと思っている。

今後の目標・メッセージ

 国連での仕事は、自分の意見を説得力を持って表現することが大切だった。自分は英語環境で仕事をしていたが、これは英語力だけの問題ではないと思う。ニュアンスのあるコミュニケーション力を身につけたくてもなかなか思うようにいかず、苦労した。国連で30年近く働いたが、この点に関しては、まだまだ頑張らなければならないと思っている。それでも、長いこと働くことができたおかげで、たくさんの優秀な職員に出会うことができ、その方々から学んだことはとても大きい。また、これまで6か国に住み、出張などでアジア・太平洋のほとんどの国に行った。どこの国でも「来てくれてありがとう」と言われ、現地の人たちに本当にお世話になった。

 こうした経験を活かして、これからは多文化共生の活動に力を入れていきたい。山形でも外国から来た人がますます増えていくと思うので、多様性を受け入れ、言葉や文化の異なる人たちも地域の一員としてお互いに住みやすい社会になるような活動に取り組んでいきたいと考えている。恩返しの意味を込めて、今度は「来てくれてありがとう」の気持ちで、山形で暮らす外国の人たちをサポートしたいと思う。

令和7年7月取材